湘南追憶 鎌浦別荘(1)

北鎌浦の駅前 鎌浦街道を渡り竹林堂医院の案内看板を辿って小流れに沿つた路を進む。

小さな橋を渡らずにさらに行くと小道は所の人が谷戸と呼ぶ、小高い丘に複雑に入り込んだこの辺り独特の狭い谷に突き当たる。

「初めて参りましたのは別荘が建った次の夏の初めでした。若奥様のお供で朝まだ暗いうちに向島のお屋敷を立って東京駅から汽車に乗りました。御船駅で降りてお昼を致しまして。北鎌浦の停車場はその頃はまだありません。できたのはずっと後、昭和になってからでした」

こう話すお梅さんは人生のほとんど全てをこの谷戸の奥、真ん中だけ幅の狭い石段になっている急な坂道を上った小さな岡に建つ別荘で過ごして来た。

「今では思いもよりませんが道中はそれは大層なものでした。御船からは奥様と家令の庄治様は車ですが、車ってもちろん自動車じゃありません腕車です。お供は徒でした。一夏分の奥様と下男、女中の入用を積んだ大八車、壊れ物は別の行李を男衆が差担いで。一行総勢十五、六人もありましたろうか」

お梅さんは湘南とは全く関わりのない本所北割下水で飾り職人の父と髪結いの母との間に生まれた。病みがちで仕事の続かない父親に代わって本所深川の富裕の商家を得意先に持つ母親が家計を支えていた。

「割下水なんて聞こえが悪いけど汚れ水のドブじゃありませんよ。物心ついた頃にはだんだん工作場も増えましたけどまだ水は奇麗でイナ が掘り割り一杯の群れになって溯ってきたこともありました」

大川を渡って浅草に行くのも異国に行く思いだったという梅さんにとって鎌浦までの道のりは生まれて初めての大旅行。手甲脚絆で足元は結い付け草履、身の周りの物を包んだ風呂敷を西行に背負って饅頭笠を被り息杖をつくという時代劇そのままの出で立ちだった。

「このとおり小柄でそんな身成ですから『きのこが歩くよ』やら『おや、大福帳は持たないか』などと揶揄われました。梅雨が明けたばかりでまだ日差しも強くはない上天気でお供衆と他愛無い話をしながら人も疎らな街道を遊山気分で歩きました。ところが街道を外れていよいよ谷戸に向かう小道にさしかかると当時は周りにほとんど家もなく鬱蒼とした薮木立です。顔に蜘蛛の巣がかかる、行くにつれて路は細くなり所々は大八や人力の車幅程もなくなって広幅なところまで担いで渡すという難行です」

この先に本当に大きなお屋敷があるのだろうか道すがら見た古いお寺のような化け物でも出そうなところだったらどうしよう・・こんな森の中で秋まで暮らすのかと思うと心細くなってきて泣きべそをかきそうになった。

杣道と変わらない難所を超え木立が切れて陽が差している谷戸の麓のわずかな平地に出て岡の上を見上げるとそこまで足元ばかりに気を取られて歩いて来た一行がしばし言葉も出ない程の景色があった。